大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪高等裁判所 昭和49年(ネ)1921号 判決

控訴人 甲野一郎

右訴訟代理人弁護士 田辺昌良

被控訴人 甲野ハナ

右訴訟代理人弁護士 山本仁

同 沢田直也

主文

一  原判決を取消す。

二  被控訴人の請求を棄却する。

三  訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

事実

一  当事者の求めた裁判

控訴人は主文同旨の判決を求め、

被控訴人は「本件控訴を棄却する。控訴費用は控訴人の負担とする。」との判決を求めた。

二  当事者の主張及び証拠関係は、次に付加訂正するほか、原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する(ただし原判決事実中「大助」とあるのはすべて「太助」と、二枚目表三行目の「推定家督相続」を「推定家督相続人」と、同裏一〇行目の「縁組届出」を「縁組」と、三枚目裏一五行目の「第一、二、三、六」を「第一、第二、第三、第六号証」、「第四、五、八、九」を「第四、第五、第八、第九号証」とそれぞれ訂正する)。

1  控訴人の主張

(一)  原判決三枚目表七行目から一三行目までを次のとおり改める。

旧法当時夫が妻の家に入り、妻の氏を称するのは入夫婚姻と婿養子の場合しかなかったところ、春子は戸主太助の家族で女戸主ではなかったから、法律的に入夫婚姻ということはあり得ないことである。事実的にも太助及び被控訴人は春子を分家とせず、控訴人を太助が戸主である甲野家の一員にしたものであり、したがって太助(もしくは被控訴人)が婿養子縁組の届出でをしたものである。

(二)  縁組意思は親子関係を創設する意思であるけれども、縁組そのものは親子関係を創設することのみを目的とし、あるいはそれを主目的としてなされるものとは限らない。他の目的のために縁組するということもある。本件において太助、被控訴人夫婦が控訴人を婿養子にしたのは、太助において織布工場を新設し織布業をも甲野家の家業としたいと考えたが同人にはその経験がなかったため、織布業の経験を積んでいた控訴人を甲野家の一員に加えて織布工場を新設運営させようとしたことによるものである。すなわち、本件婿養子縁組においては縁組の主目的は織布業の創業ということであり、親子関係の創設ということはその主目的を達するための手段、方法としてなされたのである。そして、このように縁組を手段にして別の目的を達成しようとする場合でも親子関係を創設する意思というものはあり得るのである。

(三)  原判決が縁組意思がなかったと判断した事実関係については、むしろ次のように解釈すべきであって、縁組意思を否定することにならない。

(1) 本件縁組当時太助には甲夫、乙夫、丁夫の三人の男子があったが、いずれもまだ幼年で織布工場を新設させ営ませることをさせ得る年令ではなかった。また弟己夫は既に分家独立しており、また弟庚郎も昭和七年六月二日分家独立し甲野家を離れた。そしてこの弟二人はそれぞれ太助とともに甲野家の先代からの家業であった呉服業に従事し織布業を知らず、分家して独立して呉服業を営んだ。従って太助に右子や弟があったことは何ら本件婿養子縁組の必要がなかったとか縁組意思がなかったことの理由にはならない。

(2) 縁組届出当時太助、被控訴人夫婦は己夫、庚郎の弟二人を分家させており、分家ということを知悉していたにも拘らず春子については分家させず婿養子縁組の届出をしている。このように春子については分家させず婿養子縁組の届出をしたのは控訴人を太助、被控訴人夫婦の婿養子とし甲野家の家族として織布業をやらせる目的があったからである。

(3) また太助が○○郡○○町所在の土地、家屋を春子、控訴人に与えたのは本件婿養子縁組後約六年半もした昭和一二年一二月であり右土地、家屋は春子を分家させるため分与したものではない。

(4) 控訴人が太助、被控訴人を「兄さん、姉さん」と呼んでいたことは本件養子縁組が太助のあとつぎ、すなわち家督相続人を得るためなされたものでなく、甲野家の織布工場を創設しこれを営むための手段としてなされたことからすれば、縁組意思の存在を否定する根拠とはできない。太助、被控訴人は春子の兄、義姉であり、春子は同人らを「兄さん、姉さん」と呼んでいた。このような情況のもとで控訴人が妻春子の呼び方をならったことはむしろ自然である。

(5) 大阪地方裁判所昭和一五年(ワ)第四六八号事件の判決で控訴人を太助の妹婿と認定しているが、これは村川夏子の証明書の妹婿によったものと思われる。しかし右村川夏子は春子の姉であるので控訴人を妹婿と呼んだものであり、右判決の妹婿の認定は誤認である。なお右訴訟は織布工場が軌道にのり控訴人の技術や知識を必要とせず、控訴人が工場をやめ、太助にとって用済みとなった後になされたものであることに留意する必要がある。

(6) 控訴人一郎と春子との間の子が戸籍上太助の甥、姪と表示されていることについて。控訴人が戸主太助の家族としてその戸籍に入れられたことは否定できない事実である。そして春子、控訴人間の子は春子の関係では戸主太助の甥、姪であり、控訴人一郎の関係では孫となる。戸主との関係でその何れかが記載されることになるが本件の場合控訴人の戸籍に春子が入ったのではなく春子の戸籍に控訴人が入ったのであるから、春子を媒介とした戸主太助との関係すなわち甥、姪が記載されるのは当然のことである。なお春子と控訴人との間の子の出生届出の手続は二女冬子を除いてすべて太助が行ったものである。

(7) 昭和四〇年太助死亡による葬儀の際親族間の協議により定められた焼香順で控訴人が太助の兄弟の次にされたのも、控訴人はあとつぎではなく、また既に春子が死亡し、血のつながりもなく、太助と控訴人との仲が悪化していたためで、本件における当事者の縁組意思を否定する根拠となし得るものではない。

2  被控訴人の主張

(一)  本件婿養子縁組は養親とされる被控訴人ならびにその夫太助はもとより養子とされる控訴人においても養子縁組の意思がなかった。このことは原審における控訴人本人尋問の結果に照らして明らかである。養子縁組における実体的意思は縁組当事者において実際に養親子関係を形成しようとする意思と解されるが、本件養子縁組はこのような実体的意思を欠く無効のものである。

(二)  本件養子縁組につき当事者に縁組意思がなかったことは、次の諸点からも裏付けることができる。(1)通常養親子間には親子らしい年令差が存するのが常識であるが、本件控訴人と春子が事実上婚姻した当時被控訴人は三一歳であり、控訴人は二七歳であった。本件においてもし養子縁組がなされたとすれば、養母となる被控訴人と僅か四歳年下の控訴人との間で母と呼ばれ、子と呼ぶということになるのであって、このことは昭和六年当時の封建的家族集団の規律や習俗的標準に照らして到底考えられないところである。(2)控訴人が春子と婚姻した当時被控訴人夫婦には既に四人の男子がありさらに控訴人を養子とする必要は全くなかった。仮に被控訴人夫婦に織布業を控訴人に手伝わせる考えがあったとしても、そのためには控訴人を妹春子の婿として迎えれば十分であった。事実被控訴人夫婦は控訴人ら新夫婦に対しその後土地、建物を与えて分家させているのである。(3)太助と控訴人間の大阪地方裁判所昭和一五年(ワ)第四六八号動産引渡請求事件において、太助は控訴人を妹婿であると主張し、控訴人は自らにつき入夫婚姻と主張している。(4)本件において被控訴人、控訴人とも一致して「控訴人は春子と結婚後太助を兄さんと呼び被控訴人を姉さんと呼んでいた」と述べている。また当然の帰結として被控訴人夫婦と控訴人との間には養親子としての実体が全然なく、日常生活を共にした事実も全くない。(5)太助死亡による葬儀の際の焼香順の取り決めにおいても控訴人は太助の養子として取扱われていない。(6)太助が作成した遺産の事と題する書面によると同人は自己の後継者と決めていた二男乙夫以外の家族、すなわち四男丁夫、五男戊夫と妻の被控訴人らに対する遺産の配分等について遺言しながら控訴人については何らの記載もしていない。これによっても太助は最期まで控訴人を自分の養子と認めていなかったことが判る。(7)戸籍上控訴人の子らの戸主太助に対する続柄は「甥」または「姪」と記載されている。長男や長女についての出生届もその性質上父である控訴人がしたと思われるが、控訴人がその出生届をしたことを自認している二女冬子について、もし控訴人が真実太助の養子であるなら、右冬子の出生届には同女を太助との関係で「孫」として届出ている筈であるのに「姪」として届出ている。

3  証拠関係《省略》

理由

一  《証拠省略》によると、被控訴人と訴外甲野太助は大正一一年一〇月一〇日婚姻届出をなした夫婦であったが、太助は昭和四〇年四月二八日死亡したこと、改製原戸籍には昭和七年六月九日受付により控訴人が太助の妹春子と婿養子縁組婚姻届出をなし、太助及び被控訴人の婿養子となった旨(ただし控訴人の右以前の戸籍(戸主山田一助)には六月八日受付となっている)の記載がなされていることが認められる。

二  右養子縁組婚姻届出がなされた経緯及びその後の当事者の関係について検討する。

《証拠省略》によれば次の事実が認められる。

「(1) 訴外太助(明治二六年一一月六日生)は被控訴人(明治三二年八月一一日生)と大正一〇年五月事実上の結婚(婚姻届出は長男の出生届と同日の大正一一年一〇月一〇日)をして夫婦となり大正一五年一一月二〇日家督相続により戸主となったが、被控訴人との間に長男甲夫(大正一一年一〇月一日生、昭和一九年九月七日死亡)、二男乙夫(大正一四年一二月二八日生)、三男丙夫(昭和二年六月二八日生、昭和六年九月二日死亡)、四男丁夫(昭和五年五月一六日生)五男戊夫(昭和一二年八月二日生)をもうけた。太助には弟己夫、同庚郎、妹春子(明治四一年一二月三日生)の弟妹があり太助の戸籍に家族として記載されていたが、己夫は昭和五年四月二三日、庚郎は昭和七年六月二日それぞれ分家した。控訴人(明治三七年三月八日生)が太助の妹春子と事実上結婚したのは昭和六年四月二、三日であったが、前記婿養子縁組婚姻届は長男一夫の出生届出(届出人は控訴人及び春子となっている)と同時に昭和七年六月九日になされた。これにより控訴人は戸主太助の戸籍に養父太助、養母被控訴人の婿養子として記載され、なお家族との続柄として妹春子の夫である旨も併記された。しかし春子の欄には控訴人と婿養子縁組婚姻届出のあったことが記載されただけで戸主との続柄は依然として妹のままであった。

(2) 太助はかねて本籍地の○○郡△△町大字○○○○×××番地の×(被控訴人の肩書住居地)に居住し家業である呉服業を営み、弟己夫、同庚郎もこれを手伝っていたが、弟二人は前記分家と同時に独立して呉服業を営むようになった。ところで昭和六年頃太助は新たに織布業を創めたいと考えたが、その経験がなかったため、妹春子に織布業の経験のある婿を迎えようと考え、被控訴人の兄で織布業を営んでいた乙村二郎の仲介で同人の同業者山田一助の五男で父の織布業を手伝っていた控訴人を春子の婿として迎えることとし同年四月二、三日頃太助方で挙式したが、その際被控訴人は親子の盃をした。

控訴人と春子は右挙式後太助が前年末所有権を取得した○○郡○○町□□×××番地の×宅地一二八坪一合二勺上の木造瓦葺平屋建物居宅二八坪八勺の住居に住み、右建物に隣接して太助が新設した織布工場(昭和九年一二月合名会社甲野織布工場と組織替)で働くようになり、控訴人は甲野の氏を称し、春子と同じく太助を兄さん、被控訴人を姉さんと呼んでいた。控訴人は同工場で織布の製造部門を担当し、春子も控訴人の仕事を手伝い、太助は製品の販売等の業務にあたっていた。右工場は従業員数名の小規模な企業であったが、経営は比較的順調で業績もあがり昭和一〇年三月には工場も同町大字○○に移転し、控訴人は新工場の事務所に家族とともに居住して勤務した。

しかし昭和一一年一二月中織布業の利益を太助が独占している不満から控訴人は春子とともに太助の織布業から離れ、前記□□の住居に戻った。そして控訴人ら夫婦が居住していた前記土地建物は昭和一二年一二月中売買名義で控訴人に所有権移転登記され、また昭和一四年中春子の姉(太助の妹)村川夏子の夫村川保夫の仲裁により太助から現金一万一〇〇〇円の財産の分与を受けた。なおその際春子から村川保夫宛の折衝の手紙中に太助方を「本家」と表現していた。

昭和一五年には太助が控訴人を相手取り控訴人方に保管されていた旧工場で使用したディーゼル機関の引渡の訴(大阪地方裁判所昭和一五年(ワ)第四六八号)を提起し、各自弁護士に委任し争った。右訴訟では太助側は控訴人を妹婿、控訴人側は自らを入夫婚姻と主張し、裁判所は判決理由中で妹婿と認定した。

控訴人と春子との間には前記長男一夫のほか、長女秋子(昭和一〇年七月二九日生)、二女冬子(昭和一二年一一月七日生)が出生し(その届出人は控訴人となっている。)、五人家族となったが、三人の子の戸籍上の戸主との続柄は甥姪と記載され(ただし秋子については孫を訂正して姪とされている。)、少くとも冬子の届出には控訴人がその衝にあたった。春子は昭和一八年二月一二日死亡(届出人は戸主太助)したが、死亡の事実を知らせても太助夫婦は悔みにこず葬儀に太助が参列しただけであった。

控訴人は昭和三〇年五月六日分籍届出でをし、同籍していた一夫、冬子とともに前記住居地に新戸籍を編製した。

太助は前記昭和四〇年四月二八日死亡したが、その葬儀の際親族で協議して定められた焼香順においては、控訴人は前記太助の弟庚郎、己夫の子である勝夫、村川夏子の次の順位にされ子としての扱いではなかった。なお太助は生前「遺産の事」と題する書面を作成していたが、実子の相続のことが記載され、控訴人の記載はなかった。

被控訴人は太助の生前中戸籍上控訴人が太助の養子となっているので新法上相続人となることを気にやみ、戸籍を訂正しなければならないことを太助の面前で話ししていた。

(3) 前記婿養子縁組婚姻届は太助がその衝にあたったが当時右届出は口頭でない限り養子縁組につき婿養子縁組届を、婚姻につき婿養子婚姻届を別個の書面で提出することとされており、前者については届出人は養父母と婿養子、これに二名の証人、同意者(養父母及び養子の実家の戸主縁組について父母の同意がいるときの父母)の署名捺印が、後者については届出人は妻夫これに二名の証人、同意者(妻夫の戸主及び婚姻について父母の同意がいるときの父母)の署名押印が要求されていた。」

《証拠判断省略》

三  右縁組の当事者である太助、被控訴人と控訴人とが縁組の意思がなかったとの主張について判断する。

養子縁組をなすについては縁組する意思と縁組届出の行為とがその要件であるが、縁組する意思とは単なる縁組届出の行為をする意思ではなく、実質的に当事者間に親子関係を創設する意思である。そして右のような縁組する意思は、縁組の挙式、縁組の届出によって表現され、また通常縁組後当事者間において生活に実現され、右表現及び実現された生活状態からして右意思の存在を認定することが可能となることが多い。養子となる者が未成年者である場合は養親子が共同生活を送り養親が親権者として監護教育をなす等の生活状態からして容易に親子関係創設の意思を認定することができる(縁組の意思と類似する婚姻の意思は夫婦共同生活からして認定することが容易である。)。しかし本件のように縁組と婚姻との二つの身分関係が同時に創設され、しかも養子が未成年者ではなく共同生活をしない場合生活状態からして親子関係創設の意思を認定することは必ずしも容易ではない。しかし、(1)前認定のとおり太助及び被控訴人名義の婿養子縁組届出がなされており、太助がその衝にあたっているのであるから、太助が同棲中の妻の被控訴人の意思を確かめなかったとは考えがたく、被控訴人も右縁組届出でを承知していた可能性が強いこと、(2)前認定の太助方での挙式において親子の固めの盃が交されたこと、(3)前認定の太助が控訴人を迎えるに先立って弟二名を分家させているのに、春子を分家させなかったことは、太助は控訴人を太助を戸主とする甲野家の家族の一員として迎える意思があったと推認されること、(4)前認定のとおり太助は甲野家の家業として新たに織布業を初めるため経験者である控訴人を妹春子の夫とし甲野家の一員として五年余にわたって自らが経営する織布工場の製造部門を担当させたこと、そして右のような太助の支配下に控訴人を協力させるには、控訴人を太助が戸主である甲野家の家族として迎えること、これには控訴人を太助及び被控訴人夫婦の養子とすることが適切な方法であったこと、(5)前認定の婿養子縁組届出の衝にあたった太助は、かつて控訴人を相手どり訴訟をも提起したことがあるのに、右届出でから死亡するまでの三四年間遂に右届出でにつき無効として争わなかったこと、からすると、太助は勿論被控訴人に養親子関係を創設する意思がなかったということは到底認められない。

被控訴人が本件において当事者に縁組意思がなかったことの事情として主張する点についてみるに、(1)前認定のとおり養親である被控訴人と養子となる控訴人との間に四才余りの差があるに過ぎず親子らしい年令差がないが、本件養子縁組が家業の創設を目的としてなされたことに鑑みると、不自然な事情とみるべきではない。(2)本件養子縁組当時太助、被控訴人夫婦間に既に前認定のとおり四人の男子があったのであるが、本件縁組が前記のように家督相続人を得るためになされたものではなく家業の創設のためになされたことからすれば、養子をする必要がなかったとはいえない。(3)前認定のとおり大阪地方裁判所昭和一五年(ワ)第四六八号動産引渡請求事件において、太助代理人の弁護士が控訴人を妹婿と主張し、控訴人代理人の弁護士も春子と入夫婚姻をなしたと主張し裁判所は理由中において妹婿と判断しているが、身分関係は右訴訟の目的でなかったから、右事実は直ちに前示認定を妨げるものではない。(4)控訴人が前認定のとおり太助と被控訴人を「兄さん、姉さん」と呼んでいた点については、控訴人は春子の呼び方をならったとみるべきであるから前示認定を妨げるものでない。(5)前認定の太助の葬儀の際の焼香順については、控訴人は太助の家督相続人となるため太助、被控訴人夫婦の養子となったものではないことや控訴人は太助と不和となってから既に久しく民法改正により控訴人に太助の相続権が認められるようになり、太助死亡の際被控訴人らがこの点を一番怖れていたことなどを考慮すると、控訴人が被控訴人主張のような取扱を受けたからといって、これをもって三〇数年前の本件縁組当時における当事者の縁組意思を云々するのは相当でない。(6)前認定の太助が遺産に関して記した書面中に控訴人に対する遺産の配分について何ら配慮していないことは前記のように太助が控訴人に土地建物と金一万一〇〇〇円を贈与しているほか、当時既に太助と控訴人は不仲であり、春子も既に死亡していたこと等を考えれば、右書面の記載からして当事者の縁組意思を云々するのは相当でない。(7)前認定の控訴人の子らの戸籍上の戸主との続柄の記載については、太助と春子との関係からそのような表示が用いられたと考えれば殊更不自然なことではなく、後記のように本件婿養子縁組の届出の受理自体当時の法制上認められなかったのにこれが受理されている戸籍事務のずさんな取扱いを併せ考えれば、右戸籍上の戸主との続柄の記載自体から本件の縁組意思の存在まで否定するのは相当でないものと考えられる。

また前認定の春子の手紙中に太助の家を「本家」と書いていることも、姉に対する手紙中の字句であり、右字句の存在が直ちに前示認定を妨げるものではなく、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

四  次に、被控訴人の、本件養子縁組は昭和二二年法律二二二号による改正前の民法(以下旧法といい、右改正法を新法という)八三九条、八四一条に違反し無効であるとの主張について判断する。旧法八三九条は法定の推定家督相続人たる男子のある者は女婿となすためのほか男子を養子となし得ない旨、また、同八四一条一項は配偶者のある者はその配偶者とともにするのでなければ縁組をなし得ない旨を規定しており、本件養子縁組は太助の家族中に当時法定推定家督相続人があり、かつ、控訴人が女婿となったものでない点において前者の規定に、控訴人の配偶者春子が婚姻と同時に控訴人とともに被控訴人夫婦の養子となる旨の縁組届出をしなかった点において後者の規定に違反していると認められる。ところで右旧法八三九条違反は旧法八五四条により縁組取消事由とされていたが、前記昭和二二年法律第二二二号の付則八条一三条によりもはや取消原因ではなくなり、そのかしを問うことができなくなった。次に右旧法八四一条一項に違反し夫婦の一方のみが単独で縁組の届出でをして他方が縁組の届出でをしないとき、旧法時においては、届出でをしなかった他方の配偶者はたとえ縁組の意思があったとしても、旧法八五一条二号本文にいう「当事者カ縁組ノ届出ヲ為ササルトキ」であり、右配偶者には縁組が不成立であるが、旧法八四九条に違反し、単独の届出を受理された一方の配偶者の届出で、したがって右縁組の効力については、右旧法八五一条を適用して無効とするかどうか、あるいは旧法八五六条を準用し取消原因とするかどうかの問題があった。しかし新法施行後においては、付則四条により、新法八〇二条(旧法八五一条と同一の規定)を適用して無効とするかどうかの問題があるが、旧法八五六条に対応する規定は新法にはなくなった。

ところで夫婦共同縁組の規定は、夫婦が共同して始めて一個の縁組があり、届出でも一個であると解釈するよりは、本来縁組は各親子となる当事者間に成立し、夫婦といえども各別の縁組があり各別の届出であるが、夫婦は社会の基本的な共同体であり、夫婦の一方のみが親子関係というこれまた基本的な身分関係を創設することは右共同体にひびを入れる危険性があり、これを避けるため共同して右各別の縁組をするか否かを決め、右共同して各別の縁組をするときは共同の届出でをするものと解釈するのが相当である。そして右規定に違反した単独の届出でがあったときは戸籍事務管掌者は新法八〇〇条(旧法八四九条)により受理することはできないが、誤まって受理したときの縁組の効力については新法七九五条本文の趣旨にもとるかどうかによって、新法八〇二条により無効となるかどうかを決するのが相当である。ところで本件においては、前認定のとおり太助及び被控訴人と控訴人との間には縁組の意思があり縁組後も養親子関係が存続していたものであり、また控訴人の妻である春子は太助の妹で家族の一員であるのみならず、前認定事実によると、太助及び被控訴人と控訴人との間の縁組が春子の意思に反するとか、控訴人と春子との夫婦共同体の円満を傷つけるものであったとは到底認められないから、右縁組を無効とすることはできない。

五  以上のとおり、本件養子縁組は無効ではないから被控訴人の本訴請求は理由がないことに帰する。

よって、民事訴訟法第三八六条により原判決を取消したうえ被控訴人の請求を棄却することとし、同法第九六条、第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 村瀬泰三 裁判官 林義雄 弘重一明)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例